或剣術者の老後に申し候は、「一生の間修行に次第があるなり。
下の位は修行すれども物にはならず、我も下手と思ひ、人も下手と思ふなり。
この分においては用に立たざるなり。
中の位はいまだ用には立たざれども、我が不足目にかかり、人の不足も見ゆるものなり。
上の位は我が物に仕なして自慢出来、人の褒むるを悦び、人の不足をなげくなり。
これは用に立つなり。
上々の位は知らぬふりして居るなり。
人も上手と見るなり。
大方これまでなり。
この上に、一段立ち越え、道の絶えたる位あるなり。
その道に深く入れば、終に果もなき事を見つくる故、これまでと思ふ事ならず。
我に不足ある事を実に知りて、一生成就の念これなく、自慢の念もなく、卑下の心もこれなくして果すなり。
柳生殿の、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。」
と申しされ候由。
昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりして、一生日々仕上ぐる事なり。
これも果はなきといふ事なり。」と。

聞書第一 四十五

ある剣士が老後にこういった。
「一生の間に修行というものは段階がある、下の位は修行すれども上達せず、自分も下手だと思い、
他人も下手だと思う。
中の位は自分の足りぬ点を理解し、人の足りぬ点も気が付くものの事を言う。
上の位は全てを自分のものとし自慢し、人も褒める者。
上の上に位とは自分の強さを表に出さず、人も強きと思う。

大体の人間はここまでなり、その上に極位の境地というものがある、まだまだ道は深く、終わりのないものと悟り
これで道を究めたという心はなく、終に果てもなきことと知りて静か。